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何かを訴えようとしていたのにそれが気付かれず終わってしまうこと

父方の祖父が亡くなりました。


ペースメーカーと年齢のために治療が難しいと告げられ余命1年とのことでした。
しかし、2年とちょっと生きることができました。
その間、何もしてあげられないとわかりつつも、会いに行くことしかできませんでしたが休暇があれば帰省していました。


亡くなる前、最後にあったのはゴールデンウィーク最後の家に帰る時、病気でつらいにもかかわらず大きな声で「がんばりや」と言ってもらいました。嫌な予感はしつつもまた会えると思い「またな」と返答しました。これが最後の会話でした。


親から「息してない」と電話がかかってきたとき、(ついにか…でも早すぎるよ…)と思いました。
また会うために旅行がしたい(こちらは実現できず…非常に悔しい限りですが)、正月一緒に祝おうとか目的を作ったり、多めにものを買ったりしていました。
これに関しては自分の個人的な言い訳のようなものでした。


今考え直せば祖父の行動には1つ1つ深い意味が込められていました。
しかし、それに気づけない自分の無能さ、それに応えてあげられない無力さ。
祖父の状態もまともに理解できてないことにも後になって気付かされました。
後悔するばかりです。

何かしてあげることができただろう。
もっと他の人にもあったことを話せばもう少しなんとかできただろう。
1年に数回しか会わなくなってしまっていたけど考えれば理解できることもいくらでもあったのに。


家に帰ってきたら涙が止まりませんでした。
こんなに泣いたのはとても久しぶりです。


もっと大切な人のシグナルには敏感に
そして後になって後悔をしないようにしていきたいと
人の死をもって深く学んだ数日間でした。


「がんばりや」という言葉を胸にして生きたいと思います。